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2008年6月

ヒーリングと執着と中島敦

中島敦(1909-1942)は、高校の国語の教科書に載っていることも多い『山月記』などで、有名な作家です。
彼の作品で『名人伝』という11ページほどの作品があります(『中島敦全集3』所収 ちくま文庫)。
内容を簡単に記します(11ページの作品を簡単にするのも難しいものがあります)。

舞台は昔の中国・中国戦国時代の趙の都の邯鄲(かんたん)です。
主人公は紀昌(きしょう)という男です。
紀昌が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てるところから物語は始まります。
まず、飛衛(ひえい)という名手に弟子入りします。飛衛は基礎訓練として、紀昌に「瞬きをしないこと」「小さいものを大きく見ること」を課します。基礎訓練に五年をかけたことにより、紀昌は夜、熟睡している時でも、目が開いたまま、彼の上下のまつ毛の間に、小さな蜘蛛が巣をかけるようになり、シラミが馬の大きさのように見えるようになりました。
飛衛から、奥義の伝授を受けた紀昌は、たちまち、師匠に並ぶ実力を身につけました。
紀昌は、師匠を殺せば、天下第一の名人となれると思いつき、飛衛を殺そうとするが、実力が伯仲しているため、戦いは引き分けとなりました。
飛衛は、弟子の気持ちをそらすために、「甘蠅老師(かんようろうし)という弓の大家(たいか)がいて、老師に比べれば、我々の射は殆ど児戯に類する」と紀昌に告げます。

紀昌はすぐに甘蠅老師の住む山に向かって旅立ちました。甘蠅老師は、齢100歳を超えていようという、よぼよぼの老人で、腰も曲がっていました。
老師は紀昌に「好漢(お前さん)未だ不射之射(ふしゃのしゃ)を知らぬ」といい、断崖に突き出している、ぐらぐらした岩の上に弓を持たずに乗り、飛んでいる鳥に向かって、見えない矢を形のない弓につがえて、矢を放つと、鳥は羽ばたきもしないで、空から石のように落ちてきたのでした。
紀昌は、甘蠅老師のもとで、9年間修業しました。
彼の顔は、以前の負けず嫌いの顔つきとは異なり、無表情な、木偶の坊のように、馬鹿のような容貌に変わっていたのでしたが、その顔を見て、以前の師匠である飛衛は「之でこそ初めて天下の名人だ」と感嘆するのでした。

故郷に戻った紀昌は、周囲の期待に反して、弓の妙技を見せようとはしませんでした。なぜ、弓を射ないのかと聞かれて「至射は射ることなし(射術の究極は射ることなし)」と答えるのでした。
故郷に戻って四十年後、紀昌は静かに世を去りました。死ぬまで彼は射のことを口にしませんでした。
彼の死ぬ一ニ年前のこととして、次のような話が伝わっていたそうです。紀昌が、ある日、知人の家で一つの器具を見ましたが、彼はそれが何かを思い出せませんでした。知人にこれは何かと尋ねましたが、知人は紀昌が冗談を言っているのかと思いましたが、紀昌が気が狂っているわけでもなく、本当にそれ「弓」、という名も、その使い途も忘れているのに知ったのでした。


『名人伝』を読んでいて、ヒーリングを行う際の心構えについて考えました。

クォンタムタッチ」では、『クォンタムタッチ 奇跡のヒーリング技法』の119ページにて「結果に対する執着を手放す」ことについて説明しています。
リコネクション」でも『リコネクション 人を癒し、自分を癒す』の327ページにてエリック・パール博士は「僕も、ヒーリングの結果に対する執着を手放すというくらいまでは実践した。しかし、結果がヒーリングであるという執着は手放していなかった。そのため、僕は自分の体験を制限してしまった」と記しています。
トレガー・アプローチ」でも、悪い個所を治そうとはせず、受け手の身体が楽に動く範囲を探っていくことにより、受け手が内に持つ柔軟さ、楽な状態を引き出していきます。

「何かをしよう」と意識(狭い意味での)、「これは、私の力のお陰だ」という自負が、物事の可能性を狭い枠に押し込め、低いレベルに押さえつけてしまうのではないでしょうか。

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